倭国に救援を要請した ≪白村江の戦い・中国の戦闘・日本の戦闘≫
660年・斉明天皇6年に唐・新羅連合軍の攻撃によって百済が攻め滅ぼされたのち、百済の遺臣は、鬼室福信・黒歯常之らを中心として百済復興の兵をあげ、倭国に滞在していた百済王の太子豊璋王を擁立しようと、倭国に救援を要請した。
これは戦後、一時的にせよ倭国が百済への影響力を増大させることを意味していたが、百済再興の為には古くからの同盟国である倭国の助けが不可欠だった。
倭国を率いていた中大兄皇子はこれを承諾、661年に斉明天皇は難波から九州へ出兵するも、邦の津にて急死する。皇子は皇位に就かず称制し、朴市秦造田來津を司令官とし全面的に支援した。
倭国軍は、三派に分かれて朝鮮半島南部に上陸した。
第一派:1万余人。
船舶170余隻。指揮官は阿倍比羅夫。
豊璋王を護送する先遣隊。
661年5月出発。第二派:2万7千人。
軍主力。指揮官は毛野稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍引田比羅夫。662年3月出発。第三派:1万余人。指揮官は廬原君。
倭国軍の戦闘構想は、先ず豊璋王を帰国させて百済復興軍の強化を図り、新羅軍を撃破した後、後続部隊の到着を待って唐軍と決戦することにあった。
これは戦後、一時的にせよ倭国が百済への影響力を増大させることを意味していたが、百済再興の為には古くからの同盟国である倭国の助けが不可欠だった。
倭国を率いていた中大兄皇子はこれを承諾、661年に斉明天皇は難波から九州へ出兵するも、邦の津にて急死する。皇子は皇位に就かず称制し、朴市秦造田來津を司令官とし全面的に支援した。
倭国軍は、三派に分かれて朝鮮半島南部に上陸した。
第一派:1万余人。
船舶170余隻。指揮官は阿倍比羅夫。
豊璋王を護送する先遣隊。
661年5月出発。第二派:2万7千人。
軍主力。指揮官は毛野稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍引田比羅夫。662年3月出発。第三派:1万余人。指揮官は廬原君。
倭国軍の戦闘構想は、先ず豊璋王を帰国させて百済復興軍の強化を図り、新羅軍を撃破した後、後続部隊の到着を待って唐軍と決戦することにあった。
update:2010年03月07日
